島だと思って近づいたものが、海面の下へ沈み始める。
そこから伸びる巨大な腕と、船を巻き込む渦。
北欧の海で語られたクラーケンは、単に大きなイカというだけでは収まらない、海そのものへの畏れを感じさせる怪物です。
では、海の底には本当にそんな生き物がいるのでしょうか。
船を沈める伝説のクラーケンは確認されていませんが、その着想源の候補となるダイオウイカは実在し、生きた姿も撮影されています。
面白いのは、「巨大イカがいた」で話が終わらないところです。
死体が手に入ることと、深海で普段どのように生きているかを目にすることの間には、大きな隔たりがありました。
伝説の姿から、海岸に現れた個体、研究者が見た深海の光景へとたどってみましょう。
クラーケンとは?島のような体で船を沈める北欧の海の怪物

逃げるときでさえ、周りの船には脅威になる
デンマーク王立科学アカデミーは、エーリク・ポントピダンの1752〜1753年のノルウェー自然史を、クラーケンの名が登場する初期の例として紹介しています。
そこに集められた漁師たちの話では、島と見間違うほどの大きさで、長い腕は船を沈めるとされました。
さらに、巨体が深みへ戻るときに渦が起こり、周囲のものまで引き込むというのです。
襲ってこなくても、近くにいるだけで危ない。
この設定が、普通の大型動物とは違うクラーケンの不気味さを生んでいます。
実は魚が集まる「豊かな漁場」でもあった
同じ紹介には、クラーケンの排泄物に魚が集まり、勇敢な漁師なら近くで漁をする、という意外な話も登場します。
恐ろしい相手でありながら、豊かな漁をもたらす存在でもあったわけです。
クラーケンを知る楽しさは、巨大な腕の迫力だけでなく、こうした暮らしと結び付いた物語にもあります。
出典:デンマーク王立科学アカデミーによるポントピダンの記述の紹介
タコなのかイカなのか、伝説に一つの解剖図はない
英国自然史博物館は、クラーケンをイカやタコのような姿を持つ海の怪物として紹介し、巨大な頭足類との関係を解説しています。
ただし、伝承の姿を、現代の動物図鑑のように足の本数や体の寸法まで一つに固定することはできません。
長い腕と巨大な体という共通点があるからこそ、さまざまな絵や物語に描き直されてきたと考えると分かりやすいでしょう。
出典:英国自然史博物館「Sea monsters and their inspiration」
クラーケンの正体はダイオウイカ?海岸に現れた巨大な体

伝説のきっかけになった可能性がある実在の生き物
英国自然史博物館は、まれに現れる巨大なイカの死体が、海の怪物の物語を生むきっかけになった可能性を挙げています。
大きな目、長く伸びた腕、水中ではなかなか見られない体。
それが傷んだ状態で浜にあれば、普段目にする魚とはかけ離れたものに見えるでしょう。
ただし、これは伝説が生まれる背景の説明であり、昔の話に登場するクラーケンを一頭ずつ同定した結果ではありません。
日本にも漂着する——2010年の新潟の個体
巨大イカとの出会いは、北欧の昔話だけではありません。
国立科学博物館は、2010年2月20日に新潟市の海岸で見つかったダイオウイカを紹介しています。
その個体は腕を含めて3.4メートル、胴の長さが1.7メートル、重さは109.2キログラムでした。
発見時にはすでに死んでいましたが、研究用の標本として提供されることになりました。
こちらは、遠くから大きく見えたという話ではなく、実際の体を測れる記録です。
「全長」と「胴の長さ」を混ぜると、巨大さを読み違える
同館が紹介する2007年の島根県沖の個体は、胴の長さが1.35メートルだった一方、長い触腕が残っていたため全長は6.7メートルを超えていました。
この比較だけでも、触腕が残っているかどうかで、全長の印象が大きく変わることが分かります。
「全長10メートルのイカ」は、胴体だけで10メートルあるという意味ではありません。
巨大さを楽しむときにも、何をどこから測った数字なのかを見ると、実際の姿を想像しやすくなります。
出典・標本の写真:国立科学博物館「ダイオウイカ ― 深海のミステリー」
同館のページでは掲載写真の転載が禁止されているため、写真はリンク先でご覧ください。
生きた巨大イカの映像——小笠原の観察からNOAAの動画まで

2004年の静止画、2012年の有人潜水艇からの観察
国立科学博物館の窪寺恒己氏は、2004年にダイオウイカの連続静止画の撮影に成功したと、自身の研究紹介で説明しています。
さらに2012年、小笠原の父島沖でNHKとの共同プロジェクトに参加し、有人潜水艇から生きたダイオウイカを観察・撮影しました。
紹介されている観察は水深630〜880メートルで、23分間に及びました。
海岸で体を調べるだけでなく、深海にいる姿をその場で見る。
クラーケンを想像させる動物が、物語ではなく観察の対象になった瞬間です。
なお、同じ研究紹介に出る2006年の深海動画はヒロビレイカの話なので、ダイオウイカの撮影記録と混同しないようにしましょう。
2019年の撮影では、光る疑似餌に近づく姿が記録された
NOAAが公開する次の動画では、ダイオウイカが撮影装置「メデューサ」の電子的な疑似餌に近づき、離れる様子が紹介されています。
NOAAの解説が示す推定サイズは、少なくとも約3〜3.7メートルです。
小笠原の映像とは別の、2019年の調査に関わる記録です。
映像クレジット:Edie Widder/Nathan Robinson。
NOAA公式の映像と解説/Smithsonian Oceanによる2019年の撮影紹介
これはクラーケンによる船の襲撃映像ではなく、実在するダイオウイカの行動を記録した映像です。
その区別をつけたうえで見ても、人間が普段立ち入れない場所で、これほど大きな動物が動いていること自体に驚かされます。
結局クラーケンは実在する?伝説と確認済みの事実を分ける

ダイオウイカ説が説明できるもの、できないもの
ダイオウイカ説の強みは、巨大な頭足類が実際に存在し、標本だけでなく生きた姿まで記録されていることです。
長い腕を持つ海の怪物というイメージには、現実の生き物との接点があります。
一方で、島と見間違うほどの体、沈むだけで船を巻き込む渦といった伝承のすべてを、ここで紹介した標本や映像が裏付けるわけではありません。
「巨大なイカが実在する」と「船を沈めるクラーケンが実在する」は、途中の証明を飛ばして結び付けてはいけない二つの話です。
実在が分かっても、生き方の謎は残る
窪寺氏の研究紹介では、巨大な深海性イカ類が何を食べ、どこで産卵し、どのように成長するのかが、調べるべき問題として挙げられています。
姿を一度撮れたことは、生涯のすべてが分かったことではありません。
これは未知の怪物がいるという証拠ではないものの、海の研究が「正体が判明して終わり」ではないと教えてくれます。
結論:伝説そのものは未確認、巨大イカは本当にいる
クラーケンを伝説どおりの海の怪物と呼ぶなら、その実在は確認されていません。
ただし、物語の着想源となった可能性のあるダイオウイカは、測定できる体と撮影記録を持つ、実在の動物です。
伝説のすべてが事実だったわけでも、海の巨人が最初からすべて空想だったわけでもない。
その間にある長い道のりが、クラーケンの物語を面白くしています。
昔の船乗りが恐れた海を、今はカメラが少しずつ覗いている。
次に見つかるものを想像したくなるのは、伝説の迫力だけでなく、本物の深海にもまだ知りたいことが残っているからでしょう。

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