灰緑色の大きな背中に、三角形のひれが一枚。
その後ろには滑らかな背中が続き、さらにもう一枚、離れた位置に二つ目の背びれが立っている。
1867年、博物学者エンリコ・ヒリヤー・ジリオリは、太平洋でそんなクジラを見たと記しました。
しかも遠い水平線の一瞬の影ではなく、船のそばに約15分とどまった獣だというのです。
正体への答えを先にいうと、ジリオリのクジラは、独立した動物種として確定していません。
学名Amphiptera pacificaは残っていますが、海洋生物の分類データベースWoRMSでは疑問名として扱われています。
ジリオリのクジラとは?二つの背びれだけではない奇妙な姿

前のひれが大きく、後ろのひれが小さい
ジリオリとアルトゥーロ・イッセルによる1884年の『Pelagos』には、目撃の詳しい説明が収められています。
ジリオリによれば、背びれはどちらも立ち、不規則な三角形で、先が丸くわずかに曲がる形でした。
前側の背びれは、鼻孔から尾までのおよそ中ほどに位置していたといいます。
後ろ側より前側のひれの方が、はっきり大きかったという点も記されています。
ひれとひれの間隔は約2メートル、全長は18メートルほどと見積もられました。
これらは船と見比べて出した推定値であり、捕獲した個体を測った値ではありません。
灰緑色の背中と、白っぽい腹側
上側は灰緑色で、背中の前部やひれはより暗い色。
腹側は白みのある灰色で、上側の濃い色へ徐々につながっていたと説明されています。
口はほとんど閉じていましたが、暗い色のひげ板もわずかに見えたといいます。
ジリオリは、喉や胸にほかのナガスクジラ類で目立つ縦のひだが見えなかったことにも注目しました。
「ひだがなかった」と確定するより、「観察した範囲で見えなかった」と読むのが原文に近いでしょう。
ただ背びれの数だけでなく、体の複数の特徴を比べようとしていた観察だったことが分かります。
原著『Pelagos』(1884年、79〜84ページの記述)
1867年9月4日、マジェンタ号のすぐ下に現れた

海が静かだったから、上から見ることができた
船はカヤオからバルパライソへ向かう途中でした。
目撃場所として示されたのは、南緯28度34分、西経88度10分の太平洋です。
ジリオリが船の手すりに付けていた小さな網を引き上げようとしたところ、すぐ下で音がし、水しぶきのようなものが上がりました。
そこに現れたのが、二つの背びれを持つ灰緑色のクジラだったといいます。
当時は海が静かで、船のスクリューも止まっていました。
船上から、鳥の目線のように見下ろして観察し、スケッチもしたと本人は書いています。
約15分という時間が印象的なのは、その間に色やひれの形まで見たという説明が続くためです。
「珍しいひれがちらっと見えた」という一文だけでは、この報告の特徴を十分に伝えられません。
捕まえようとしたが、船は近すぎた
原著によると、船員たちは捕獲の準備も進めました。
銛と丈夫な綱を用意する一方、小さな真鍮の砲も動かしたというのです。
ところが砲は、狙う相手に向けられるほど下へ傾けられませんでした。
遠すぎて狙えなかったのではなく、船のそばにいたため角度が足りなかったという、意外な場面です。
その間にクジラは右側へ少し体を傾けたとされ、ジリオリは腹側や胸びれを追加で観察しました。
ここでも本人は、二つの背びれを同時にはっきり見たと念を押しています。
小舟に乗り込んだとき、巨体は潜ってしまった
やがて小舟が下ろされ、ジリオリも乗り込みました。
しかし船から離れたときには、クジラは水中へ姿を消していたといいます。
約10分後に遠くへ再浮上したものの、再び潜り、夜も近づいていました。
捕獲は実現せず、観察した動物の標本は得られなかったのです。
著者は、再発見によって自分の観察が確かめられ、研究が進むことを望んで文章を結んでいます。
詳しい目撃談が残る一方で、確認の仕事がまだ終わっていないことも、原著に残っているわけです。
原著のテキスト版(Amphipteraの記述・OCRの読み違いには注意)
正体は既知のクジラ?学名があることと、実在が確定することの違い

Amphiptera pacificaは、データベースで疑問名
WoRMSには、Amphiptera pacifica Giglioli, 1870という項目があります。
しかし、その状態欄はuncertain、nomen dubiumとなっています。
これは、名前が記録されているから、その特徴を持つ独立種が確認済みだという意味ではありません。
「学名があるUMAだから科学的に実在する」と説明するのは誤りです。
1867年は目撃、1870年は名前に付く記載年、1884年は今回読んだ詳しい再述の刊行年です。
三つの年を、三回の別々の目撃と数えないことも大切です。
WoRMS:Amphiptera pacificaの分類上の扱い
コセミクジラに似ている、という比較もある
動物を扱うブログBiological Marginaliaの2013年の記事は、ジリオリの図や説明をコセミクジラと比較しています。
頭部や体の形の共通点と、背びれの異常という可能性を組み合わせた解釈です。
ただし、その記事も体長や頭の形などの不一致を挙げています。
これは比較による仮説であり、ジリオリの個体を検査して同定した研究結果ではありません。
二匹が重なって見えた可能性についても、同記事は長時間、上から見たという条件と合うかを問題にしています。
この記事では、どれか一説で解決したとは結論づけません。
既知種との比較を読む:Biological Marginalia「Giglioli’s Whale」
当時の姿は、写真ではなく記述からたどる
原著にはスケッチをしたという記述がありますが、今回の資料から、この1867年の個体を撮影した写真は確認できませんでした。
後世の図解や挿絵は、当日の撮影写真ではありません。
図を紹介する二次資料にも、元の図との一致をどこまで確かめたかという注意があります。
そのため、原図の画素を分析して種を判定できたかのような説明はしていません。
結論:詳しい目撃記録はあるが、正体の確定には届いていない
ジリオリのクジラは、二つの背びれを持つ動物として詳細に報告された一方、標本によって独立種と確かめられていない存在です。
既知種との比較説はありますが、今回確認した資料では正体を一つに決められません。
興味深いのは、目撃者がただ驚いただけではなく、位置、色、形、時間まで残したことです。
あれほど近く、あれほど長く見たのに、実物は手に入らなかった。
その隔たりが、今もこのクジラを読み解きたくなる理由なのでしょう。


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